低酸素脳症 男性


1998年10月24歳の時、トラックで配送中、喘息発作を起こす。自宅近くまで戻るが、トラックを降りたところで路上に倒れ、救急車で病院へ運ばれる。意識障害、チアノーゼに続き、呼吸停止。1ヶ月間の人工呼吸、全身麻酔の後、意識は回復するが、低酸素脳症による高次脳機能障害の後遺症が残った。 1999年2月、S大学病院リハビリ病棟へ転院するが、リハビリの意欲はなく他の患者のベッドへ行くなどの行動のため、2ヶ月で退院せざるを得なくなる。

同年4月、在宅介護となった。起床、洗顔、歯磨き、食事、服薬など、身辺動作全てに指示が必要で、日中も寝ていることが多い。ほとんど会話はなくなった中、半年後、急に次のようなこと言うようになった。それは2ヶ月ほど続いた。

「神様、ありがとうございます。オレは何か生き返ったみたいだ」

「オレには、二つの世界があるんだ」

「1994年の世界と今の世界があるんだ」

2000年1月ごろからは、暴言が増えた。 「くそばばあ」「デブ」「ボケババア」「うるせんだよ、ボケ」等。 息子の姿に親の方も不安が強くなってきた。

2000年5月、新聞記事で高次脳機能障害の情報を得たことが、精神手帳の取得や「サークルエコー」への入会につながった。同じような経験を共有する家族たちとの出会いにより(母親も)ようやく精神的な安定を得た。 翌年、サークルエコーの紹介で民間の障害者支援施設に通うこととなった。そこでも当初は寝ていることが多く、また、言葉遣いも乱暴であったが、地道な指導を受け、1年後には、他の利用者とともに団地の集合ごみ置き場の清掃の仕事を担当するなど、精神的な落ち着きがでてきた。

2002年6月、「調布ドリーム」にも入会した。卓球・音楽療法・認知リハ・料理教室・絵画・工作などのグループリハビリにより、仲間意識も芽生え、メンバーの名前を覚えられるようになった。 同年10月、交渉の末、ガイドヘルパーの利用が可能となり、それまで母親が車で送迎をしていた前述の民間施設へはヘルパー付添いで電車やバスで通うようになった。

2004年10月、高次脳機能障害者のための地域作業所「クラブハウスすてっぷなな」へ週3回の利用が可能となり、ガイドヘルパー同行での通所がはじまった。1年後には、首にかけた道順プレートを見ながら、バス、電車を乗りついで1人で通えるようになった。

31歳となった現在(2006年)、ほとんど毎日、通うところがあるが、記憶障害(5分くらいで忘れる)、遂行機能障害、地誌的障害のため、見守りは欠かせない。継続したリハビリのために、いかに障害の認識を持たせるかということが今後の課題である。