脳外傷 男性・大学生(20歳)


大学生活も2年目に入り、息子はアメフトに夢中だった。

2002年11月30日、チームの秋のリーグ戦の優勝も決まり、 一週間後の2部昇格の試合を前に、いつになく気合が入っていた息子は、 前日の風邪ぎみだった様子とは裏腹に元気よく家を出て行った。

しかし、「息子さんがアメフトの練習中に倒れ、病院へ搬送されました」 という学校からの一報が、息子と家族の以後の生活を一変させた。

脳震盪で倒れたかと楽観的なことを考えつつ妻と病院にかけつけると、 医師から急性硬膜下血腫で脳が腫れ、助かるかどうかわからないと告げられた。 愕然として、力が抜けるようであった。じっと待合室で息子の生還を祈り、 ただただ命だけでも助かってほしい、それが偽らざる心情だった。 手術は無事に終わったが、意識が回復する目処そしてどのような後遺症が残るのか、 医師からは楽観的な所見は全く示されなかった。低体温療法にて冷え切った息子の体を擦り、 息子の強運をひたすら信じ、名前を呼んであげることが私たちにできる唯一のことであった。

約一ヶ月後、意識は十分に戻っていなかったが、リハ病院へ転院した。 「大丈夫!意識は戻りますよ」、「必ず歩けるようになりますよ」。 理学療法士の先生の力強い言葉が、私たちの脳裏に今もしっかり焼きついている。 意識が朦朧としながらもリハビリを開始した息子は、目覚しい回復をみせた。

事故から6ヶ月が過ぎた頃、上下肢半身の麻痺が残るもその程度の障害ならばと、 楽観視していた私たち家族に、「高次脳機能障害」という新たな障害が医師から告げられた。 食後に何を食べたか聞いても覚えていない、いつもニコニコしていて妻にまるで幼児のよう に甘えるかと思えば、突然怒り出したりして、以前の息子からは想像できない事柄に接する ことになった。とりわけ兄弟たちは、以前の頼もしい兄が変わってしまったことに愕然とし、 多感な時期を迎える妹はふさぎ込んでしまい、家族の雰囲気もなんとなくギクシャクし始めた。

ソーシャルワーカーから、当事者家族会を紹介されたのはその頃である。

早々に「ハイリハ東京」へコンタクトを取った。

憔悴して定例会場の片隅に座っていた私たちに、私たちの気持ちを感じ取ってくださった会員 のお母さんたちが声をかけてくれた。「親がくよくよしてどうするの」、「一生この障害と付き 合わなければいけないのよ、焦っちゃだめ」。一つ一つの言葉が有難く、 やさしく私たちの背中を押してくれるようだった。

当初、息子は隔月に開催される定例会になぜ参加するのかも理解できなかったが、 同年輩の仲間ができたことで心にゆとりができ、他人の障害を見ることで自分の障害 についても理解ができるようになった。なにより、当事者家族の実体験は、 停滞しがちであった我が家の家族間の関係を改善するのに大いに役立つものであった。 高次脳機能障害があると、社会生活の自立には多くの困難を伴うのが現実である。 それには当事者が時間の制約なく集うことができ、当事者の症状にあった永続的な訓練できる 「場」を確保する必要がある。また「高次脳機能障害」ついて、社会に広く理解してもらう意味でも、 彼らの活動成果を外に情報発信する必要がある。そのことは彼ら自身に達成感を与え、 潜在的な当事者家族にも有意義であろう。

我々の貴重な経験を、もっと有効に活用することを考えたい。当事者家族会はリハビリ現場の延長線上に位置すべきであると私は考えている。

それには専門的な情報を持つ医療機関、とりわけリハビリの専門家の協力が必要不可欠である。 当事者・家族・専門家の連携の輪の中から、当事者がさらに生き生き暮らせるような道を創り 出していきたい。